昭和52年01月14日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」

 登り切って向こうへ降りたらそれで安心じゃと。それで安心じゃと言われる安心とは、そういう様な事であろうかと。私は、これは確か昨日もここでしたですね。今日もまたこれを頂きますから、今日はどういう様な所を頂くだろうかと思うて、昔私が手控えにしとります、神様から頂いた事やら、手控えにしておるのを開かせて頂いたら、此処の所を頂くのです。これは法然と書いとりますけれども、これは親鸞と、親鸞と美代吉の一問一答の所が書いて有るんです。これは親鸞ですね。
 「美代吉よ美代吉よ何を聞くに耳を傾くる、聞き損のうて、とんと落とすな。」と、親鸞上人様が美代吉に向かって言われたわけですね。そしたら美代吉が言っておる事は、「落ちるこの身は十八願の、内と思えば危なげはなし。」と答えた訳なんです。それで又親鸞が、「それ程の安心を頂いた上は、手足運ばず家で喜べ。」と言っておりますですね。それ程の安心を頂いた上は手足運ばず家で喜べ。そこで又美代吉が答えて曰く、「親様の恩を思えば家におられん。」と言うとります。
 私はその今日は、ここん所を頂きたいと思うんです。向こうへ降りたら安心じゃと言うのは、金光様の御信心の話、例えば合楽理念なら合楽理念をマスタ-したらもう合楽の信心はこれでお終いなんだ、これを段々ずっと極めてさえ行けば良いのだという訳です。ここの上人様が言っておられる、聞き損のうてとんと落とすなという所が素晴らしいですね。お互い聞き損なう事が有るんです。親先生がああ仰ったからと、ああ仰った事を自分の楽な方へ楽な方へと取る人で有ります。
 言うなら割り切って頂く人が有ります、いわゆるドライです。確かに楽になるです。だから上人様はそういうところを仰った、聞き損のうてとんと落とすなと。何の為に毎日毎日その教聞をする、いわゆる教えを頂くのに何の為にそんなに耳を傾けるかと。それこそ頂いて頂いて、頂き抜く事は有り難いけれども、そして頂き損なう事でもなってもならないぞと言われた訳です。そしたら美代吉が答えて曰く、落ちるこの身は十八願の内と思えば危なげはなし。
 上人様どこへ落ちましても、それが例えば、地獄の真ん中で在りましても、弥陀如来様の十八願という、弥陀の願という御神願と言うかね、御神願の中と思えば、危なげはございませんと言うておる。もう大変な悟りですね。どういう中にあっても、弥陀如来様の懐ん中以外は、在りませんとお答えした時に、上人様がもうそれ程しの心を開き、悟りを開いておるならば、もう家で拝めと言われた。それ程の安心を頂いた上は、手足運ばず家で喜べと言われた、ね。
 もう手足を運んで来る事はいらん、それ程に悟りを開いたんだったらもう家で拝め、家で信心を続けていけと言われた。けれどもね、上人様《美代吉》はそれに答えて、この様に親様が日々御修行下さってあるのを思うたら家でじっとしておられません、と言うた訳なんです。もう此処に至る時に信心は完璧と言うのじゃないでしょうか。まあ言うならです、もうそれだけの事を身に付けたんなら家で拝んでええと、もう手足運んでこんでも良いぞと。ああそうですか、と言うた所には、もう信心はないと思うですね。言うなら一つのお試しだった訳です。
 金光教の中にもこんな話がありますね。大阪の難波に近藤藤守という先生がおられた。毎月お月参りを金光様のもとにして見えられる。周防です山口県。今の山口県に唐樋というそれこそ飛ぶ鳥落とす勢いで人が助かったという先生がおられた。唐樋先生もうそれこそ生神様の様なお方だったらしい。この方もやはり山口から毎月月参りをされた。そこで教祖様が唐樋先生に、遠方の所をそんなにして毎月毎月参ってこなくても、家で人が助かる助かる事の為に、もうわざわざこんなに毎月参って来んで良いぞと言われた。
 だから唐樋樋先生はそれもそうでございますなと言うて、それっきり止められた。難波の近藤藤守先生はそう言われてもやはり参って来なさる。それである時に教祖様が声を荒らげて仰ったそうですね。そんなに繁々と参って来なくても家では信者が待っとる、参ってくる間、人が助かる御用が出来ない、そんな信心じゃなくてもう家で拝めよ、とまあ仰ったそうです。そしたら近藤藤守先生がそれこそ涙を流してお願いなさったそうです。私共夫婦には親がございません。
 勿体ない事ですけれども、金光様御夫妻を親と思うて毎月のこの月参りを楽しみに参っておるのですから、曲げてこの事だけはお許しください、というて言われた。近藤藤守真の信心になったと御裁伝があったそうです。だから油断も隙も出来ませんですね。九里半登ったから油断するなという事はそういう事です。もう自分はここまで出来たからもうという事じゃない。もうそれこそ声荒らげて、そんなに参って来んでも良いぞと教祖様が仰っておられるのにそれでもやはり続けて参られる。
 それでも尚、教祖様が一矢を報いられるとそれに応えて、曲げてこの事だけはお許しが頂きたいと言うて願われた時にです、近藤藤守真の信心になったと御裁伝があったという事です。だから真の信心とは、それああ親先生がもう来んで良かっちゅうたけんで、もう参らんと、まあ私はそんな事は言やきりゃしません。参って来い参って来いばかり私が余り言うから参って来んのかも知れません。
 けれども合楽ではまだそこをなら頂き抜けれる程しの人は無い様にあるから、まあ参って来い参って来いと言う訳なんですけれども、お互いの信心が段々進めさせて頂いて昨日からも申します様に、合楽の皆さんの場合は例えば経済、金銭なら金銭の上に於いてでも確かにその日暮らしのおかげを頂けておられる。必要な物は必要に応じて頂いておれれる、本当に神様の働きちゃ間違い無いという事を、しみじみと分かられ体験しておられる方が殆どだと思います。
 けれども、そういう間違いの無い神様が分かったんですから、神様の心がだんだん分かって来ると、神様はその日暮らしではない、少しはゆとりのある生活が出ける事を願うておられる。いいやそれこそ、億万の金に埋まっておる程しの、おかげを頂く事を、神様は願うておられる。そこで私共がそういう願いをしなければいけない、という事を昨日聞いて頂いたですね。借金払いがすんだならば、せめて三ヶ月位はゆとりのあるおかげを頂かせて下さい。
 そのおかげが頂けれる様になったら向こう三年だけ位はもう遊んどっても食べられるという位なゆとりのあるおかげを頂けよと言っておられる。これは阿倍野の先生のお話の中から頂いた訳です。成程阿倍野辺りがああいう大変な隆々たる御比礼がたつのはです、神様の絶対という事が分かって、その上に神様の心が分かって神様がです、さあ明日の手形がとかと言うてもう走り込んでお願いに来る様な事の無くて済む様なおかげを頂く事を神様が願っておられるのであり、神様はそれを喜んで下さるんだという事がです、ここんねきあんまり早うおよたれ回って頂くとです、やり損なうですもんね。
 だから、合楽の皆さんの場合なんかも、その日暮らしの有り難さ、今月今日、只今を祈って行く事に依ってです、これは金銭だけの事でない、全ての事の上に於いて、神様のお働きの、一分一厘間違いの無い働きを、皆さんが実感してみられた、その実感その神様のおかげの上に立っての、言うならゆとりである。そういうおかげを願うて行くという事は、そのまま神様の願いですから、神様のお喜びですから、そこを分かっての、信心だという事です。
 私は今日はその事を、又改めてこれからその事を繰り返し、又皆さんに言う事でしょう。もうゆとりの有る様なおかげを頂く様に願いなさいという事を言う事でしょうがです、その事をお願いさせて貰いよりましたらね、何ともつかんこう歯車があるんです大きな。それを丁度あの白鼠がこうやって回すのが有りましょうが、あの車がこうこうして回すのがあれの様に歯車をね、その獣というのが、もう何とあげな獣は見た事が無いものがこうやって回しておるとこを頂くんです。
 ははぁ合楽でこうやって回うて行きよるのはね、言うならば私はそれはもうめぐりの正体だと思いました。そげな獣は見た事がなか、お互いの心ん中にある獣編と言うか、お互いのめぐりと言うか、そのめぐりの為に難儀をしておる苦しんでおると例えば致しましょうか、その難儀が回しておるんだという事です。これではね大した事はない、今までの合楽の場合はそんなもんじゃなかったろうか、信心が段々分からせて頂いてそれこそ美代吉さんじゃないけれども。
 例え落ちるその身は地獄道であっても、落ちるその身は十八願の内と思えば危なげはないという程しの心を例えば開いておりましてもです、家にじっとして居られない程しの感動、家にじっとして居られない程しの喜び、どうか御用でもさせて貰わなければおられない程しの心。言うなら有り難いから勿体ないから、今日は私の方の修行生の事をお願いさせて頂きよる時に頂いたのが、本当に道の教師としてお取立を頂きたい、信心が分かりたい、又は真の信心が分かりたい、と言うて信心の稽古をさせて頂く。
 そういう真の信心に触れる。神様の真に触れるという事はね、神様へ向ける所の憧念心が足りないという事を頂きました。神様へ向ける所の、言うならば憧れの念、神様がもう慕わしうして慕わしうしてたまらんという、そういう信心、一つの情念の様なものを燃やさなければ神様の本当の真には触れられない。そこでなら皆さんの場合でもです、あれば頂かなんからこれば貰わなければならないから、苦し紛れに朝目が覚めるというのではなくて、それこそ有り難いから目が覚めるという信心。
 言うならば御礼参りの信心、喜びの信心、教えを頂く事がただただ楽しいからの信心。それをそれならも少し言うと、昨日の佐田のおばあちゃんの話じゃないですけれど、自分でも気が付かなかっただろうけれども、女の性というか人間の業というか、そういうもので自分自身が苦しんで、これを取り払い、ここから自分が助かっていかなければならんという、自分自身が助かる事の為にあの一生懸命の朝参りがあった。もうそれこそ、いそいそともう走り込んで来よんなさいましたですよね。
 七十幾つになったお婆さんが、駆け足の様にしてお広前に入って来よんなさいました。生活が掛っとる訳ではない、どうこうっと言う事は無い、もう家で楽隠居で朝はゆっくり寝とっても良い身分でありながら、やはり息子達と一緒に朝参りをして来る。それはね自分でも気が付いておられないだろうけれども、これ自分自身が助かる事の為に一生懸命参られた。それを自分でも気が付かれないけれども、若先生がお知らせを頂いとる様に、佐田のおばあちゃんの信心は、お徳を頂く為の信心であったという事であります。
 自分自身が助かる事の為のね信心がお徳を受けるのです。人のあらが見える、訳もないのに腹が立つ、どうにも出来ない自分のこの根性というものがです、人にも迷惑を掛ける自分も助からん、と人間の言うならば、業といった様なものに本気で気づいて取り組んで、そこを助かりたいという一念がおばあちゃんのお参りであったという事がです。本人自身も気が付いておられなかったかも知れんけれども、亡くなられて初めてその最後的な、言うなら業のお取り払いを頂かれて病院に入られて、四十日間というものはもう只有り難い有り難い。とても物が食べられるという病気じゃない。
 癌とという胃癌という病気ですから、それにそれこそ何を頂いても有り難い有り難い、寝まれる時には、もうこのまま寝ませて頂いて、目が開かん時にはもう私はいよいよ極楽行きじゃから親先生にどうぞ宜しう、と言うのが日々だった。という様に、もう誰が来ても看護婦さんが来ても、もう有り難うございます有り難うございますだったそうです。もう苦しうてこたえんなら中々有り難う御座いますが出ません、という程しにおかげを受けておられたという事です。
 成程もうお徳を受けられたという感じです。昨日一昨日亡くなられたんですから、その前の日、福岡から胃癌でおかげを頂いた人が、又その人の娘さんの姑親御さんがリュウマチで寝たっ切りの人がお参りをして来る様になって、胃癌の方もおかげを頂き、リュウマチの人も言うなら起きて便所位は自分の用位段々出ける事になった喜びが、昨日一昨日お礼に出て来た。花屋さんですからもうこんな花を、菊の花の白と黄とそれから白百合の花とそれから少しカ-ネ-ションやなんかやらも混ぜて、とにかく三箱でした三抱き持って来なさったです。
 まあこげん沢山花ば持って来てから、しかも同じ、まあとにかく卸屋からそのまま取ってきなさったと言う感じですよ。沢山な花を持ってお供えに持って見えましたんです。私は何の為だろうかと思うて昨日思わせて頂きよったら、それが誰も扱い手がないもんですから、昨日竹内のお母さんが見えとられまして、お花を挿して貰う、だから佐田のおばあちゃんが亡くなられたという事だから彼方に献花ですね、所謂お花は沢山来るだろうけれども、お願いさせて貰いよったらここの霊様の前にお供えする事を頂いた。
 だから昨日彼方のお母さんが両サイドにその花を活けて下さった。佐田のおばあちゃんの霊様は、もう例えば新霊として五十日間別におらんでももう直接ここの霊舎にでん入られる位な、言うならば垢の抜けたものを頂いておられたという事をです、その前後の事から思うてみてそういうおかげを受けておる霊だという事が分かりますですね。その為のこの花でした。
 昨日私は改めてその事を神様にお礼申させて頂きました。問題は皆さん本当に自分自身が助かる事の為に、腹が立ったり、情けなかったり、いらいらしたり、心配で堪らなかったり、それは自分自身が助かっていない証拠ですから、そういう意味ね、自分が助かりさえすればというのはね、もう私さえ良かりゃ良かというそういうとは違うですよ。自分の心がいよいよ助かる事の為の信心、それがそのままお徳を受ける信心です。
 だからふんならもうこれで良いという事ではないですけん、参らにゃおられんという事になるわけですから、そういう信心が出けた時に、私はもう神様も安心して下さるのじゃないでしょうか。九里半の道を十里登った向こうへ降りた姿、信心とはそういう信心ではないでしょうか。おかげ頂きたいばっかりで参って来よるとおかげ頂くと、ああ有り難い有り難いと言いよるてん束の間で又ストッと落とす、これでは安心じゃという事にならんでしょう。安心じゃという事は神様が安心して下さる信心なんです。
 そこで今日は一番初めに美代吉さんと親鸞上人の問答を聞いて頂いた様に、例えば朝参りのこうした修行がです、もう有り難い勿体ないがです、お参りさせて貰わずにはおれないという程しの信心が出けた時に、言うなら獣編が回すのじゃない、めぐりが回すのじゃない、もう有り難い勿体ないが回るという事はもうそこに真の信心のボタンが押される時にです、もう獣編が回すのじゃないグ-ッと大地の真に通ずる様な、言うならば発動機が起こってその歯車が回う様に、一つの歯車が回えば十も二十もの歯車に、こういう大きな活動という事になる。
 神様の御発動とはそういう事だと思うです、お互いの心の中に一つそういう信心を目指さして頂いておかげを頂きたい。今日はこれこれであっても安心してはならんと油断してはならんぞと、向こうえ降りたら安心じゃと言われる安心とは、今日皆さんに聞いて頂いた様な信心を頂いた時に初めて神様が安心して下さる、だから私共にその安心も返ってくる。その安心が喜びとなって家にはじっとしておられんというのが、お日参りという様な形がとれる様になった時に、本当の言わば神様の御発動が頂けれるんだという事を今日は聞いて頂きましたね。
   どうぞ。